ねこづらどき

ねこづらどきは黄昏時を表す言葉です 京都の寺社や町並み、花の風景を歩きながら記録しているブログです。ときどきお城巡りもしています。

京都・洛東 夏の早朝散歩2026 ~八坂の塔 7月30日~

東大路通から八坂の塔までの石畳の道を夢見坂と言います。須田国太郎が描いた「法観寺塔」の構図です。

法観寺 夢見坂から見た八坂の塔

かつて丹塗りだった八坂の塔

法観寺塔婆」という絵画をご存じでしょうか。明治から昭和にかけて活躍した洋画家須田国太郎が描いた作品で、八坂の塔が中心に聳え、その前に電柱が林立するという印象的な絵画です。構図としてはこの写真に似ていますが、実際には東大路通の西側から見た風景で、今でも建仁寺を抜けて八坂通を登って行くと、須田画伯が描いたような電柱に囲まれた八坂の塔を見ることができます。

多くの電柱は近代化の象徴、その中にあっても存在感を失わない古塔の姿を描いた名画ですね。この絵について画伯自身が語った言葉があるのですが、その中に「丹塗りの建築細部」という興味深い一節があります。あれっと思って調べてみたのですが、建てられた当初は清水寺の塔のように丹色に塗られていたことが判りました。今は何の彩色も見あたりませんが、この絵が描かれた昭和7年にはまだ色が残っていたものと思われます。

回避された彩色の復元

八坂の塔は昭和18年から22年にかけて半解体修理が行われており、その際にも部材の裏側などで丹色の跡が確認されています。修理に当たっては、この元の丹色に戻すか、木地のままにしておくか議論が交わされましたが、結局彩色は施さないことになり、現在に至っています。もし彩色が施されていたら、今とは全く違う景観になっていたことでしょうね。

八坂庚申堂の隣にある黄色い壁の家はカフェになっていました。元は日本画家のアトリエだった家でした。

法観寺 カフェとなった黄色い壁の家

カフェとなった画家のアトリエ

ところで彩色と言えば八坂庚申堂の隣にある黄色い壁の家が、最近「GESHARY COFFEE 洛」になっていました。東京のカフェの京都支店だそうですね。そして、この家は高名な日本画家のアトリエだったのだそうです。何度もこの前を通っていますが、全く知りませんでした。ただ、高名な画家とは誰なのかは公表されていません。表に出した方がPRになりそうなものですが、何か事情があるのでしょうか。

内部には轟川を利用して植治が作庭した庭園があるそうです。一度入ってみたいですがコーヒーが一杯1000円以上、ちょっと二の足を踏みますね。やはりインバウンドをターゲットにしているのでしょう。

法観寺は聖徳太子によって建てられたという伝説を持つ寺。元は八坂寺という大きな寺でしたが、現在は八坂の塔と小さな御堂が残るのみです。

法観寺 民家に囲まれた八坂の塔

意外と少なかったインバウンド

最近はインバウンドの間でも早朝散策が定着し、この時間帯でも沢山の人が居ると思っていたのですが、この日は比較的少なかったですね。中国による渡航制限の影響なのでしょうか。

なお、この向こうにあったやたらと目立つ自動販売機は撤去されていました。当局から指導が入ったのでしょうか。

インバウンドに大人気の構図の八坂の塔。この日も10数人のインバウンドが集まっていました。

法観寺 八坂通から見下ろした八坂の塔

定番構図の八坂の塔

この場所には予想通り、かなりの人が集まっていましたね。それでも思っていたより半分以下、10数人程度でした。以前は左端に見えている百日紅を撮りに来る場所だったのですけどね、今は枝垂れ桜が繁ってきてちょっと無理になってきました。

以前は百日紅の名所として知られていた場所。今は枝垂れ桜が繁ったため、百日紅と塔を絡めた写真は撮れなくなっています。

法観寺 百日紅と八坂の塔

三度再建された八坂の塔

法観寺は聖徳太子によって創建されたという伝承があります。解体修理の際に行われた発掘調査で、創建の時期としては整合していると判明しています。当時は八坂寺という大きな寺でしたが、その後次第に衰退していき、塔だけは残されました。そしてその塔も計3度焼失していますが、その都度再建され、最後に建てたのが足利義教でした。恐怖政治を行ったことで知られる将軍ですね。そんな強権的な人物でも大切にしたというのは、どういうことだったのでしょう。そして、現在は寺としての体裁はほとんどありませんが、この塔だけが聳えているという不思議な存在です。見慣れ過ぎて何とも思わなかったのですが、考えてみれば謎だらけの存在ですね。

世界に広がる悠久の歴史

インバウンドが殺到したことにより、この写真と同じような画像は、世界中に何万とあることでしょう。須田国太郎が感じた悠久の歴史は、今や世界共通のものとなっています。

京都・洛東 夏の早朝散歩2026 ~建仁寺 7月30日~

建仁寺の放生池で蓮が咲いていました。盛りは過ぎていましたが、まだ見られる状態でした。

建仁寺 放生池の蓮

花見小路に連なる建仁寺

花見小路が尽きる所に場違いとも思える山門があります。そこが建仁寺。華やかな花街の隣に、厳粛な修行の場があるというのが何とも不自然ですね。

初めて訪れた人は祇園は建仁寺の門前町として発展したのかと錯覚するかもしれませんが、そうではありません。明治初期に行われた上地令(社寺の土地のうち、宗教施設と関係の無い土地は収公するという政策)により国に取り上げられ、祗園女紅場に払い下げられて花街に発展したのが祇園甲部なのです。

京都の社寺は多かれ少なかれこの政策によって土地を取り上げられており、清水寺に至っては境内地の90%を失ったとされます。これによって社寺の受けた打撃は計り知れなく、例えば清水寺は残った建物を売り払ったりするなどして急場をしのいだのですが、窮乏のほどは隠しきれず、明治中頃の写真を見ると舞台などは手入れが全くされておらず、荒れ果てた状態だったことがわかります。

建仁寺の法堂です。本堂も兼ねていて、天井には双龍図が描かれています。

建仁寺 法堂

没落と建仁寺派総本山としての再生

建仁寺も同様で、境内地の4分の3を失った上に領地まで取り上げられ、困窮の極みに達しています。しかし、臨済宗建仁寺派の大本山という地位を手に入れたことにより、明治10年前後から復興に着手しました。それでも十分な経済的基盤を得たわけでは無く、昭和9年には台風により方丈が倒壊するという被害を受けています。つまり、老朽化した建物を補修するだけの余裕はなかったということなのでしょう。

建仁寺の東にある参道です。もみじが美しい道です。

建仁寺 庫裏から続く参道

上地令の功罪

このように社寺に大きな打撃を与え、貴重な文化財も海外に流出するなど負の面が目立つ上地令でしたが、もし実施されていなければ京都市の土地の大部分は社寺のもので、その後の都市としての発展は無かったことでしょう。祇園甲部はその象徴の様な場所ですが、京都の至る所が同じような経過を辿っており、現在のような130万都市にまでなることは無かったでしょうね。上地令は文化の破壊と流出を招きましたが、反面都市の発展に寄与した諸刃の剣だったという訳です。

開山堂近くには植え込みがあります。もみじの緑が鮮やかでした。

建仁寺 開山堂前のもみじ

祇園町北側と南側の明暗

さらに余談になりますが、祇園町南側が昔ながらの景観を保っているのは、今でも祗園女紅場学園が一括して土地を所有しているためで、個人が所有していた北側は時代と共に売却されていき、雑居ビルが建ち並ぶ現在の姿に変貌してしまいました。祇園町南側がタイムカプセルのように古い町並みを残しているのは、極論すれば上地令が一つの要因だったと思われます。

望闕楼を背景にした蓮です。花託が多く、少し来るのが遅かった様です

建仁寺 蓮と望闕楼

夏に静かに咲く蓮

夏の建仁寺にはこれといった見所は無かったのですが、10年ほど前かな、放生池に蓮が植えられて花を咲かせる様になりました。最初はこの五分の一程度しかなかったのですが、年々広がりを見せて結構見応えがあるようになってきています。ただ、思っていたほどには増えないのはあえて押さえているのでしょうか。まあ、池面全てを覆ってしまうよりも、これくらいの方が侘び寂びが効いていて良いかもしれませんね。

花街と禅寺の落差

花街の華やかな町並みから一転して、渋い禅寺の境内に入る、この落差が花見小路を歩く本来の面白さです。

京都・洛東 夏の早朝散歩2026 ~花見小路 7月30日~

祇園甲部の中心を通る花見小路。三条通から建仁寺まで続きますが、一般には四条通以南を指すことが多い。

花見小路 四条通からの入り口

祇園のメインストリート:花見小路

京都五花街(かがい)で最も規模が大きいのが祇園甲部。その中心を通る道が花見小路です。本来夜の町で、昼間はがらんとしていた花見小路ですが、今はインバウンド客が溢れる場所となっています。

インバウンドの増加は、ビザ発給要件緩和や円安傾向を背景に2013年頃から始まりました。当時は芸舞妓に会うことが目的で、写真を強要したり、着物をひっぱったりする舞妓パパラッチが問題となりました。その後、コロナ禍で一旦落ち着きは見せましたが、流行が収まるとV字回復し、以前にも増して激増しました。コロナ以前より更に増えた主な原因は、祇園を舞台にしたドラマ「舞妓さんちのまかないさん」の世界的ヒット。内容が舞妓さんが暮らす置屋での日常を描く作品だった事から、聖地巡礼として訪れる人たちが押し寄せ、無断で置屋に入り込もうとするなど大変な騒ぎでしたね。

最近はマナーの徹底が呼びかけられ、以前ほどのことは無くなったようですが、依然としてインバウンドの聖地として賑わいを見せています。

花見小路にある丸ポスト。境内電話を持てない舞妓さんにとっては、外部との連絡用に大切な存在です。

花見小路 丸ポスト

舞妓さんの大事なポスト

花見小路の中程にあるのが丸ポスト。舞妓さんは基本的にスマホを持つことが禁止されていることが多いので、外部との連絡は郵便が大切な手段です。世間では少なくなってきている手紙やはがきですが、ここではまだまだ必要とされています。なのでこのポストは大事な存在なのですね。

祇園の紋章は繋ぎ団子。かつて茶屋で振る舞われた団子に由来します。

花見小路 繋ぎ団子の提灯

祇園の紋章

提灯の模様は繋ぎ団子という祇園の紋章です。かつて八坂神社の門前町で売っていた団子をデザイン化したもので、八坂神社の八にちなんで八つの丸が並んでいます。また、団子がひとつに繋がって輪を描いている形から、「人々との良縁が絶え間なく続くように」「地域の和と繁栄が途切れないように」という願いが込められているとも言われます。

本わらび餅で人気の徳屋。元は見番があった建物でした。

花見小路 祇園徳屋

人気の徳屋と見番の関係

ここは本わらび餅の店として人気のある「徳屋」さん。ここは行列の出来る甘味処ですが、入り口に祇園女紅場学園の稽古のスケジュール板が掲げられています。ちょっと不思議な気がしますが、これはここが見番(芸舞妓さんの取り次ぎや事務手続きを行うところ)の跡だった名残です。現在の見番は歌舞練場の中に移転しています。

花見小路に緑はこくわずか。御茶屋の前に植えられたもみじ越しに見た花見小路です。

花見小路 もみじ越しに見た花見小路

竹カバーのカラーコーン

花見小路には基本的に緑が少ないですが、所々にこうした植え込みがあります。昼間の雑踏の中ではこうした構図は無理ですが、早朝なら可能です。

ちなみに茶色のとんがりは竹で覆われたカラーコーン。景観に配慮したものですね。少し前にSNSで下鴨神社で見かけられて、京都らしい配慮だと話題になっていましたが、祇園では以前から使用されていたものです。

弥栄会館をリニューアルしてオープンした帝国ホテル。看板は「祇園 花街芸術資料館の案内。

花見小路 帝国ホテル

帝国ホテルに変身した弥栄会館

ここは歌舞練場の前。左の建物は元弥栄会館で、今は帝国ホテル京都になっています。少し前、京都を紹介する番組で有名なコメンテイターが、とても良いホテルなので、是非泊まってくださいと紹介していましたが、宿泊料は最低で一泊15万円から、上は78万円まで。そりゃ居心地もサービスも良いでしょうね。はっきり言ってインバウンド向けのホテルです。どうも庶民派をもって任じるコメンテイターも、実は庶民の感覚からは大きくずれているようです。

手前の看板は、祇園 花街芸術資料館の案内。歌舞練場を活用して、舞台の案内や衣装の展示、別料金になりますが京舞の鑑賞などが出来ます。

時代の変遷に揺れる花街の伝統

インバウンドの波に洗われながら、伝統と格式を守って来た祇園ですが、最近は芸舞妓、特に舞妓の仕事と労働基準法の関係で揺れているようですね。厳しいしきたりや深夜まで及ぶ労働、明確で無い契約関係など問題は山積みのようです。どう折り合いを付けていくか、これからの課題ですね。

京都・洛東 六道まいり2026 ~西福寺 8月7日~

六道まいりの二カ所目は西福寺です。六道珍皇寺より西にあり、六波羅蜜寺へと向かう道の分岐点にあります。

六道まいり 西福寺

実在する六道の辻

あの世とこの世の境とされるのが六道の辻。六道とは仏典にある言葉で、輪廻転生を繰り返す六つの世界のことを指し、六道の辻とはそれらの世界の分かれ道にあるとされる日本独自の民間伝承です。この六道の辻が実際にあるのをご存じでしょうか。

六道珍皇寺から松原通を西に下って行くと、六波羅蜜寺へと向かう六波羅通が分岐しています。そこには六道の辻と記した石碑が建っており、角にある西福寺の壁面にも六道の辻地蔵尊と大書されています。日本を見渡せば横浜市や茅ヶ崎市にも同様の地名が存在しますが、正真正銘、生と死の世界を分ける場所と言えばこの辻のことを指します。

西福寺の入り口は大きく二カ所開けられており、どちらから入っても構いません。お地蔵様や不動明王にお参りしたい人は左側から入るとすぐにあります。

六道まいり 西福寺入り口

風葬地・鳥辺野の入り口

なぜ生と死の世界を分ける場所とされたかと言えば、かつて広大な風葬の地であった鳥辺野の入り口に当たるからです。鳥辺野は、平安時代から蓮台野や化野と共に京都三大風葬の地とされ、庶民が亡くなると遺体をこの地に運び、野外に置いて自然に朽ちるに任せました。そのため遺体が鳥や獣に食われることも珍しくなかったとされます。裕福な貴族は火葬が一般的でしたが、貧しい庶民は火葬に必要な薪を買い求めることが出来ず、風葬にするしか無かったのですね。

弘法大師が作った地蔵尊

このため、鳥辺野一帯は白骨が散らばる、文字通りの死の世界でした。六道の辻地蔵尊とは、この有様を嘆いた弘法大師が、死者を供養するために自作したと伝わる地蔵尊のことで、その際地蔵堂もこの地に建てられました。この地蔵尊は、現在も西福寺に伝わっています。

西福寺の成立

今の西福寺はずっと時代が下って、関ヶ原の戦いに敗れ、六条河原で処刑された安国寺恵瓊の菩提を弔うために毛利家の家臣が地蔵堂の周囲に堂宇を建てたのが最初です。そして、その後衰微していたのですが、江戸時代中頃に関白二条綱平が父の菩提を弔うために再興し、地蔵堂も含めて西福寺としたのでした。

西福寺のお作法はとてもシンプルで、100円でロウソクを買って点して貰うだけです。すると、名前を聞かれ、先祖代々の供養をして貰えます。

六道まいり 西福寺灯明台

西福寺の六道まいりの作法

西福寺の六道参りは極めてシンプルです。100円でロウソクを買い求めると名前を聞かれ、先祖代々の供養をして頂けます。

供養が終わるとこの迎え鐘を鳴らして終了。とてもシンプルですね。

六道まいり 西福寺 迎え鐘

西福寺ならではの絵解き

そして、その後この迎え鐘を撞いて終わりです。六道珍皇寺のような高野槙(こうやまき)の授与などは特にありませんので、純粋にお参りのみとなります。

西福寺の特徴は、熊野観心十界図や檀林皇后の九相図などの絵解きをしてくれるところにあります。以前は無料で、障子を開け放して大勢の人に聞かせていたのですが、現在は500円が必要になり、障子も閉じてお金を出した人だけに聞かせるようになっています。また、九相図などの撮影も禁止になりました。私は去年聞いたので、今年は聞かずにおきました。

西福寺の起源は弘法大師が荒涼とした風葬の地に地蔵堂を建てたことにあるとされます。後に檀林皇后が我が子の病気平癒を願ったところ見事に叶い、後に仁明天皇となったことから子育て地蔵として崇敬されています。

六道まいり 西福寺 地蔵堂

弘法大師作の子育て地蔵はどこに

西福寺は地蔵堂から始まったと書きましたが、この地蔵堂を檀林皇后が信仰し、我が子の病気平癒を願ったところ見事に回復し、後に仁明天皇として即位したことから、子育て地蔵として信仰を集めるようになりました。現在も地蔵堂はあり、子育て地蔵尊と書いた提灯が吊られています。そして、その正面にあるのがこの石仏なのですが、よく見ると水子地蔵尊と書かれています。説明書きをよく読むと、弘法大師の作った地蔵尊は土造りで秘仏とされているとあります。つまりこの石仏ではありません。

ほとんどの石仏は水子地蔵

この地蔵堂には夥しい数の石仏があるのですが、そのほとんどは水子地蔵で、子育て地蔵の信仰と結びつく形で、水子供養の信仰も広がっていったのでしょうか。では秘仏はどこに祀られているのかと探したのですが、御前立ちすら無く全く判りませんでした。お寺の人に聞けば良いのですが、次々と参拝者が訪れるため、タイミングが掴めず諦めました。

壁の中に厨子がある可能性

帰ってから写真をよく見直したのですが、背後の壁に二カ所金具が付いているのが判りました。そしてその上にも沢山の子育て地蔵尊と記した提灯が吊されているのも判りました。これは全くの推測ですが、金具は扉に関係したもので、壁の一部が厨子になっており、その中に秘仏の地蔵尊があるのではないかと思われます。何の説明も無いので確証はありませんが、可能性は高いのではないでしょうか。

参拝時に感じた正直な戸惑い

それにしても、外壁には「弘法大師御作 六道の辻地蔵尊」と大きく掲げ、堂内には「子育地蔵尊」と記した提灯まで吊しておきながら、肝心のお地蔵様がどこにあるか判らないとはちょっと不親切ですね。霊験を信じてやって来ても、どこを拝めば良いのか判らないのですから。せめて奥に厨子がありその中に祀られていますとか書いておいてほしいものです。

六道参りから五山の送り火まで

それはともかく、これで今年の六道まいりは無事に終わりました。次は五山の送り火の薪の奉納ですね。どこにするかは検討中。それにしても六道まいりでお精霊さんをお迎えし、送り火であの世に送り返すとはよく考えたものです。壮大なスケールのお盆の行事ですね。それを支えてきたのは町衆達。いつまでも続いて欲しい行事です。

京都・洛東 六道まいり2026 ~六道珍皇寺 8月7日~

毎年8月7日から10日にかけて東山区六原で行われるのが六道参り。お盆に先立ち、ご先祖様を家に迎える為の行事です。

六道まいり 六道珍皇寺

お精霊さんを迎える行事

京都を中心に、関西ではご先祖様の霊をお精霊さん(おしょらいさん)と呼びます。お盆の間、ご先祖様を家にお迎えするのは全国共通かと思いますが、京都市の場合は茄子や胡瓜で馬を作ってご先祖様を迎える代わりに、高野槙に宿って貰い、家にお迎えするという風習があります。そして京都の中でも西陣地区とそれ以外の地区で少し違い、西陣地区は千本えんま堂や千本釈迦堂で精霊迎えという行事が行われます。

西陣以外では六原にある三つの寺、六道珍皇寺、六波羅蜜寺、西福寺へお参りに行く人が多く、総称して六道参りと呼ばれます。それぞれの寺で参拝方法は異なりますが、黄泉の国に届くという迎え鐘を撞くという点では共通していますね。

千本えんま堂と六原地区に共通しているのは、かつての風葬地の入り口にあたるということで、あの世とこの世の境界に位置しているというところです。つまり、お精霊さんを迎えに境界線まで出向くということですね。

西陣の精霊迎えには行ったことが無いので、ここでは六道参りに絞って話を進めます。

六道珍皇寺ではまず高野槙を買い求めます。この高野槙にご先祖の霊、お精霊さんが宿るとされます。

六道参り 高野槙の購入

六道珍皇寺での参拝法

六原地区で高野槙が手に入るのは六道珍皇寺のみ。なので、参拝者もここが一番多いですね。参拝には順番があって、まずは高野槙を買い求めます。ここでもインフレは進んでおり、去年より100円値上がりして一本800円になっていました。

高野槙を買った後は水塔婆を買い求め、ご先祖の戒名又は俗名を書いて貰います。

六道参り 水塔婆の購入

ご先祖を記した水塔婆を手に入れる

高野槙を手に入れたら本堂に向かい、水塔婆を買い求め、戒名または俗名を書いて貰います。水塔婆とは卒塔婆を薄く小さくした木片で、水に浮かべたり濡らしたりして供養するためこの名があります。一枚400円で、家にお迎えするお精霊さんの数だけもとめることになります。

水塔婆を書いて貰った後は迎え鐘を撞きます。撞くと言うより、縄を引っ張って鳴らすと言う方が正しいですね。

六道参り 迎え鐘

迎え鐘を撞く

水塔婆を手にしたら迎え鐘を撞きます。撞くというより、綱を引っ張って鳴らすのですけどね、この音が黄泉の国にまで届くとされています。

ちなみにこの日は昼前に行ったのですが、思っていた以上に参拝者が多く、順番待ちの列が寺の外にまで伸びていて、15分以上待たされました。これまでここまで待ったことはなかったですね。

鐘を撞いた後は、水塔婆を線香の煙で清めます。線香は三本100円で売っています。

六道参り 線香で清める

線香の煙で水塔婆を清める

迎え鐘を撞いた後は線香を買い求め、その煙で水塔婆を清めます。線香は三本で100円ですが、少し太めのためか火を付けるのに結構苦労します。さらに困るのが線香を立てるときで、この枡の中がとても熱いのですね。なるべく手前に立てようとしたのですが、それでも火傷しそうなくらいに熱がこもっていました。

最後に地蔵堂へ行って、置いてある高野槙で水塔婆に水を掛ける水回向を行い、箱に収めて終了です。このとき、お精霊さんが最初に買った高野槙に乗り移るとされます。

六道参り 水回向

水回向をして水塔婆を納め高野槙を持ち帰る

そして、最後に地蔵堂の前に行き、木箱に水塔婆を立てて、置いてある高野槙を使って水を掛けます。これを水回向と言い、この時に持っている高野槙にお精霊さんが宿ると言われています。

後は高野槙を家まで持って帰り、仏壇があれば仏壇に供え、無ければ部屋の中に生けておきます。そして、お盆が過ぎればお寺に返しに来るのですが、それが無理なら自治体の決まりに従って処分しても良いそうです。

裏門近くには人の一生の姿と下層(地獄)から上層(天界)までの十界を描いた熊野観心十界図が展示されています。

六道まいり 熊野観心十界図

熊野観心十界図

こちらは、鐘撞き堂の裏手に掲げられていた熊野観心十界図。後で行く西福寺では絵解きをしてくれますが、人が生まれてから死ぬまでを円弧状に描き、その先にえんま様が居て、その裁きを受け、地獄をはじめとする六道や、さらに上位の仏の世界まで、十の世界が描かれています。どこに行かされるかは生前の行いで決まるとされます。

地獄の絵も恐ろしいですが、私的には賽の河原にお地蔵様が描かれているのがなるほどと感じました。子供にお地蔵様を拝みなさいと言うわけですね。

以前の六道参りは、松原通りに出店が沢山並ぶ賑やかな行事でした。しかし、現在は道に出店は無くなり、境内にわずかに残っているだけです。

六道参り 出店

無くなってしまった出店

六道参りで大きく変わったのは、かつては松原通に沢山の出店があって、あたかもお祭りのように賑やかだったのですが、コロナ禍を境に一気に出店が無くなってしまったことですね。まだ境内にはかつての名残がありますが、一歩境内を出ると何とも寂しく感じてしまいます。人によっては、同時期に開かれる五条通の陶器市に客を奪われたと言いますが、それは今に始まったことではありません。松原通は狭いため、警察の許可が下りなくなったのでしょうか。それとも露天商自体の減少のせいだとか。

私としてはかつての賑わいが恋しいのですが、人によっては静かな環境でこそご先祖様をお迎えするには相応しくなったという声も聞きますね。

六道珍皇寺の創建には諸説があり、小野篁創建説もその一つ。篁はこの世とあの世の顕官を兼ねており、夜になるとあの世へ出かけていたとされます。その時通ったとされるのが冥土通いの井戸です。

六道珍皇寺 小野篁冥土通いの井戸

冥土通いの井戸と黄泉がえりの井戸

主題からは外れますが、六道珍皇寺の起源には諸説があり、小野篁が創建したという説もその一つです。そして篁はこの世とあの世の顕官を兼務しており、昼は朝廷で働き、夜は黄泉の国で閻魔大王の下で働いていたという伝説の持ち主です。この寺には黄泉の国へ行く時に使ったという井戸があり、「冥土通いの井戸」と呼ばれています。そして現世に帰って来る時に使った井戸は「黄泉がえりの井戸」とされ、嵯峨野にあった福正寺に存在しました。現在は福正寺は廃寺になっており、跡地は宅地化されているため残念ながら現在は消滅しています。

ただ、近年六道珍皇寺の旧境内に新たな井戸が見つかり、それが黄泉がえりの井戸ではないかとされています。通常は見学は出来ないようですが、いつか特別拝観があれば見てみたいものですね。

お精霊さんに見守られる日々

とても暑い日でしたが、無事に参拝をおえることができ、今は高野槙はリビングに生けてあります。大文字の送り火が終わるまではお精霊さんは我が家におられます。子孫の生活ぶりをどう見られているか、聞いてみたい気もしますね。

 

期間 2026年8月7日から10日まで

時間 時間6時から午後10時まで

最寄り駅 京阪電車 清水五条駅

京都・洛西 蓮2026 ~大沢池 8月7日~

大沢池の蓮が見頃です。天神島前と菊ヶ島周辺で咲いています。写真は庭湖石。

大沢池 庭湖石と蓮

洛西の蓮の名所:大沢池

洛西の蓮の名所と言えば大沢池。一昨年突然消えてしまうという不思議な現象がありましたが、昨年部分的ながら復活し、今年はどうなったかと見て来ました。

少し沖合で咲いているのでぱっと見、良く判らないのでアップにしてみました。

大沢池 蓮の花

蓮の広がりは昨年並み

結果としては去年とほぼ同じ、天神島の前と菊ヶ島周辺の二カ所で咲いていました。もう少し広がりを見せているかと思っていたのですが、わずかに増えた程度でした。

なぜ一昨年に一斉に姿を消し、去年また復活したのか原因は不明のままですが、とりあえず今年も咲いていたのは良かったです。

大沢池が庭池であることを示す菊ヶ島。その近くで蓮が咲いています。

大沢池 菊ヶ島と蓮

嵯峨院の名残にして嵯峨御流発祥の島

大沢池は嵯峨天皇の離宮、嵯峨院の庭湖として作られた池。その名残を止めるのが菊ヶ島です。

この島に咲いていた菊を嵯峨天皇が手折り、花瓶に挿したのが生け花嵯峨御流の発祥とされます。この島に天神島と庭湖石を加えた二島一石が「景色生け」として今に伝わっています。

超望遠で捉えた池越しの大覚寺の伽藍。今は西側にありますが、創建当初は北側にありました。

大沢池 池越しに見た大覚寺

焼失を繰り返し移転した大覚寺

嵯峨院は嵯峨天皇の死後、皇孫の恒寂入道親王により大覚寺に改められましたが、その後火災や戦乱により三度焼失しており、現在の大覚寺は安土桃山期から江戸時代初期に掛けて再建されたものです。嵯峨院は創建当時は大沢池の北側にあり、池は南側に位置していました。その後の再建の過程で、現在は西側に伽藍群は建っています。このためでしょうか、大覚寺と大沢池の連続性には少し違和感を感じます。たぶん池が東西に長いからでしょうね。

天神島に渡る為の赤い橋。対岸から蓮とのコラボにしてみました。

大沢池 蓮と赤い橋

今年の花は少なめ

蓮の盛りは過ぎていたのかなあ、例年ならもっと咲いているのですけどね、ちょっと花数が少なかったです。

背後の赤い橋は天神島に渡るための橋。天神島とは菅原道真公を祀った社がある島という意味で、スダジイのご神木が生えています。この木にはアオバズクが毎年やってくるのですが、残念ながら今日は見つけられませんでした。なお、一昨年に名古曽橋が架けられたことにより、行き止まりだった天神島からも東側に抜けられる様になっています。

心経宝塔と蓮のコラボです。青葉や桜が繁っており、塔の全景を入れる事が出来ず、半分木に隠れてしまいました。

大沢池 心経宝塔と蓮

立秋の日に感じたかすかな秋の気配

大沢池の南岸からは、心経宝塔を入れた写真が絵になるのですが、桜時分紅葉時分には前景となる繁った葉が今は邪魔で、良い角度が見つけられませんでした。

朝一番に行ったにもかかわらずすでに高温で、相変わらずの異常気象を実感させられましたが、立秋の日らしく赤トンボを見かけました。誰も居ない大沢池で感じたかすかな秋の気配、お盆を過ぎれば猛暑も少しは陰ってくるでしょう。次にここに来るのは名月の日か、紅葉か。暑さにあえぐことなく池を散策することを楽しみに池を後にしました。

京都・洛東 夏の早朝散歩2026 ~祗園白川 7月30日~

夏の早朝の誰も居ない巽橋です。祗園白川を象徴する光景です。

祗園白川 巽橋

静けさを求める早朝散歩

京都の中でも最も京都らしいと言われるのが東山界隈。オーバーツーリズムの象徴のような地域でもあり、昼間はインバウンド客でごった返します。祗園白川はその起点ですが、元々夜の繁華街ですから、人が居なくなるのは早朝のいっときだけに限られます。その時間帯を狙って始発電車に乗り、清水寺までを歩いて来ました。

祗園白川の西の端で咲いている芙蓉。咲き始めたばかりで、つぼみが沢山ありました。

祗園白川 芙蓉

祗園白川の成り立ち

祗園白川とは、文字通り祇園の中を流れる白川沿いの界隈を指します。石畳の白川南通沿いに並んだ京都らしい店並びと、白川沿いの古い町並み、それに祇園では珍しい植え込みによる緑が美しい界隈ですね。

元は茶屋が建て込んだ地域だったのですが、戦時中の強制疎開で道幅が広げられ、戦後の重伝建の指定に伴う環境整備によって現在の景観が形作られました。強制疎開前は白川の上にまではみ出した茶屋が建ち並んでおり、おそらく白川の川面も見えなかった事でしょうね。

その端に芙蓉が咲いていました。毎年楽しみにしている花ですが、今年は他の花と同様、少し開花が早いようですね。

祗園白川の中程にある一群の緑。おそらくユキヤナギの夏の姿と思われます。

祗園白川 夏のユキヤナギ

一幅の涼を感じる一群の緑

白川南通の中ほどに、涼しげな一群の緑がありました。何の植物だろうと色々調べたのですが、春にはこの辺りで白い花が咲いていた記憶があり、おそらくユキヤナギではないかと思うのですが、確証はありません。

常に観光客で溢れているのが巽橋。ただ、早朝のひとときだけは誰も居ないこの橋本来の風情を感じることが出来ます。

祗園白川 人の居ない巽橋

巽橋の成り立ちについて

祗園白川の象徴の様な景観が巽橋。橋の名の由来は、すぐ近くにある辰巳大明神に由来するとされます。如何にも古くからある祇園らしい橋のように見えますが、現在の橋が架けられたのは昭和32年(1957年)のことです。元はと言えばこの橋に続く道は無く、文政12年(1829年)に御茶屋が作った入り口(または裏口)に繋がる木橋だったようです。

明治以後、祇園町南側が花街として発展するにつれて、北側との行き来に便利なように御茶屋の一部を取り壊して道とし、白川を渡る橋として利用されるようになりました。現在、この橋に続く道が切り通しと呼ばれるのは、文字通り町並みを切通して道としたことによります。

その後木製の橋から土橋になり、さらにコンクリート製の橋に架け替えられたのが昭和32年、その後時期は不明ですが石畳と木製の高欄が取り付けられ、今の形となっています。

巽橋の上から白川下流側を見た景色です。枝垂れ柳が茂りやや鬱蒼とした雰囲気ですが、柳の緑が涼しげに見えなくもありません。

祗園白川 巽橋から見た白川

辰巳大明神の由緒

この橋の名の元になった辰巳大明神は、今は一見稲荷社のように見えますが、元はある御茶屋の屋敷神として白蛇が祀られていた祠だったようですね。その後、御茶屋が移転した跡も祠は残り、何度か移転を繰り返した後、現在地に辰巳大明神として祀られる様になりました。

現在、稲荷社の様になっているのは次のような経過を辿っているからだと考えられます。白蛇を神様として祀っていたということは、蛇を使いとする弁財天に通じ、弁財天は宇賀神と習合されていました。そして宇賀神は稲荷神とも習合しており、商売繁盛を願う意味から稲荷社の形をとっているのではないかと言うのですね。そして、元々が歌舞音曲の神様である弁財天ですから、祇園の芸舞妓が、芸の上達を祈る神様として信仰しているのではないかとされます。推論に次ぐ推論ですから、どこまでが本当か明確ではありませんけどね。

巽橋から続く道が切り通し。文字通り、密集していた茶屋を切り開いて出来た道です。

祗園白川 切り通し

御神体を狸にしてしまった町衆

もう一つ、辰巳大明神には俗説があって、かつて巽橋には狸が棲んでおり、夜になると化けて出て、芸舞妓を驚かせ、白川へ転落させるといういたずらを繰り返していました。そこで辰巳大明神を建てて狸を祀るといたずらはピタリと止み、平穏が戻ったと言われます。町衆が考えたのか子供たちが考えたのかは分かりませんが、土橋だった頃は狸が居てもおかしくない雰囲気だったのでしょうか。

静かな文化の喪失

ただ、祇園界隈は最近とみに店の入れ替わりが激しく、地の人がどんどん少なくなっています。町の俗説もまた文化の一つ、地元の人が減り、こうした話を知る人も少なくなっていくのは、町の文化が静かに失われていくことなのかもしれません。この橋を通り、切り通しを通る度に店が入れかわっているのを見ると、一抹の寂しさを感じずにはいられません。

京都・洛東 そうだ京都行こう Presents 青蓮院の夏灯り ~青蓮院門跡~

そうだ京都行こうのキャンペーン、青蓮院門跡の夏灯り。宸殿前に白い蓮と青い星が輝いています。

青蓮院門跡 夏蓮華の夏灯り

夏の夜のイベント:青蓮院のライトアップ

白い蓮と青い星が織りなす幻想的な光景。青蓮院門跡の宸殿前庭園で見られる世界です。

イベントの名前は「そうだ京都行こう Presents 青蓮院の夏灯り~青蓮院門跡~」。ちょっと長いですね。要するに青蓮院のライトアップなのですが、この宸殿前庭園の白い蓮と青い星の光がメインとなります。

小御所近くにある一文字の手水鉢。豊臣秀吉の寄進と伝えられます。

青蓮院門跡 一文字の手水鉢

木々の香りのした夜の拝観

もちろん、境内全域がライトアップされており、夜の伽藍内の拝観や庭園の散策もできます。青蓮院のライトアップはこれまで何度も行われており、特に花灯路が行われていた頃は恒例行事でした。ですのであまり新鮮味は感じなかったのですが、この季節に来るのは初めてで、木々の香りなどまた違った味わいがありましたね。

相阿弥作と伝わる庭園のライトアップ。借りた提灯をかざして撮ってみました。

青蓮院門跡 相阿弥の庭

主庭の伝・相阿弥作の庭

青蓮院の主庭は相阿弥が作庭したと伝わる相阿弥の庭。華頂山の裾野を背景に龍心池を穿ち、築山や池中の大岩、石橋などを配した池泉回遊式の庭です。ただ、寺伝に相阿弥作とあるだけで、他には客観的な資料の裏付けは無く、「伝」と付けるのが正しいのかもしれません。また、江戸時代に小堀遠州、明治時代に小川治兵衛(植治)によって手が入れられています。

今回のライトアップでは提灯の貸し出しが行われており、足下を照らすほどの実用性はありませんが、風情は感じますね。

青蓮院門跡の裏山は粟田山。庭園の遊歩道の途中には竹林があります。

青蓮院門跡 竹林

幽玄味のある竹林

庭園を歩いていて、いちばん雅趣があったのが竹林です。昼間見ても涼やかな感じがする竹林ですが、ライトアップされた光景は幽玄味すら感じました。

なお、青不動は通常の拝観時のように小御所から本堂裏に渡るのでは無く、庭園の最後に通路から拝観するようになっています。

宸殿と宸殿前庭のライトアップです。白い蓮の造花が林立し、苔の上には青い光が点在しています。

青蓮院門跡 宸殿と前庭のライトアップ

宸殿前庭園の見事な演出

そして、今回のイベントの一番の見所である、宸殿前庭園のライトアップです。このイベントでは拝観順路が通常と違って宸殿から入ることになり、最初に縁側からこの庭を見る事になるのですが、かなり混み合うため縁側に居られるのは五分だけと制限されます。でも、あせることは全く無く、庭を一回りして来るとここに出てくることになり、ゆっくりと見られます。それに宸殿の縁側から見るよりずっと綺麗に見えますよ。

宸殿前の庭とその奥にある本堂です。蓮と青い光が幻想的な光景を演出しています。

青蓮院門跡 宸殿前庭園と本堂

白い蓮と青い星の共演

白い蓮は常時点灯していますが、青い光は五分間隔で明滅します。つまり、五分輝くと一旦消え、さらに五分ほど経つとまた輝き出します。また、光が暗くて写真を撮るのは案外難しいですね。スローシャッターが必要になるのですが、三脚は使えないのでぶれやすく、また青色が出ると蓮が白飛びしてしまいます。さらに宸殿を入れると建物が明るくなり目立ちすぎることなどから、ちょっとした工夫が必要です。上手く行ったのは最初の写真くらいですね。

結構人気のあるイベント

混み具合はかなりのものです。開門前には100m位に延びていたかな。その後も続々と来ていましたね。
拝観は予約と当日券の両方があり、当日券は1500円、そうだ京都行こうのホームページから予約すると1200円、それにEX会員ならクーポンが付きますから、920円になります。ただし、日付指定になりますから、天気は当日にならないと分からないのがデメリットです。

なお、期間は8月31日までてせす。

あと、夜だから涼しいだろうと思っていたのですが、かなり暑かったです。もしかしたらまだ30度を上回っていたんじゃないかな。

夕食と組み合わせる訪問の楽しみ

暑いと文句を言いながらも、ライトアップそのものは綺麗でした。もっと綺麗な写真が撮れれば良かったのですけどね。21時までに入れば良いので、ちょっとした夕食と組み合わせて訪れるのが良いかも知れませんね。

令和8年8月1日訪問

祇園祭・後祭 山鉾巡行2026 ~大船鉾 7月24日~

御池通を進む大船鉾。後祭山鉾巡行のしんがりです。

祇園祭・後祭 山鉾巡行 大船鉾

巡行の最後を締めくくる船の鉾

陸の上を動く船。室町時代の人は凄い発想をしたものですね。記録によれば大船鉾と前祭の船鉾は同時期に存在していたことが確認されており、おそらくは対で作られたものと推測されています。

元になった題材は神功皇后の制韓伝説。前祭の船鉾が出征の船、後祭の船が凱旋の船とされ、それぞれ巡行の殿を務めてきました。

旗をなびかせて河原町御池の交差点に入っていく大船鉾。陸を船が進む不思議な光景です。

祇園祭・後祭 山鉾巡行 河原町御池交差点の大船鉾

祇園祭を襲った三度の災禍

二つの船鉾とも、応仁の乱、天明の大火、禁門の変に伴うどんどん焼けで被害に遭い、焼失しています。このうち三度目の大火が二つの船の明暗を分けました。船鉾は御神体を始め、図面や懸装品など重要な部分を運び出すことに成功しました。このため明治中期に再建を果たすことが出来ています。対して大船鉾は鉾本体や龍頭など多くの主要部を焼失してしまいました。さらに明治になって再建資金を小学校の建設費用に流用するなどしたため、復興出来ずに133年間休み山となることを余儀なくされました。ただ、神功皇后の頭部と神面は救出に成功しており、いつかは復興をというモチベーションになったのは、不幸中の幸いでした。

どんどん焼けとは

なお、どんどん焼けのどんどんとは大砲と鉄砲の音のことで、禁門の変で長州藩が京に攻めこみ、幕府、薩摩藩を主体とする官軍と市街戦になり、市内の大半が焼けてしまった大火のことを言います。このとき火を掛けたのは逃げる長州兵と、隠れている長州兵をあぶり出そうとした官軍の両方で、町衆は全くのとばっちりを受けたのでした。戦で被害を受けるのは庶民というのは、古今東西いつの世も変わりが無いですね。

辻回しの準備中の大船鉾。曳き手が勢揃いし、車方が最後の作業をしています。

祇園祭・後祭 辻回しの準備をする大船鉾

消えかけた伝統と復興への転換

大船鉾は居祭りを続けていましたが、1990年代半ばに居祭りの維持も困難になり、全て中止となってしまいます。しかし伝統が消えてしまうことを惜しんだ若手有志が中心となり、囃子組の復活から始め、2008年から本格的に復興に着手し、多くの支援を受けて再興に成功し、2014年に巡行に復帰しています。この間に受けた支援としては、囃子は南北の観音山から指導を受け、菊水鉾から足回り、黒主山から欄縁を寄贈されるなど、やはり鉾町の繋がりがあります。他にもライオンズクラブから屋形、三宝祇神会から力綱の寄進を受けています。

鉾町の絆と助け合い

辻回しについては菊水鉾から指導を受けたそうですね。車方、大工方に直接指導し、車輪の制御法や道具の使い方まで伝えたそうです。2014年の巡行には行けなかったのですが、曳き初めは見に行きました。この時は放下鉾の人達が応援に来ていましたね。

河原町通に向かうため、音頭取りや曳き手が配置に付き、車方が車輪止めを外しています。

祇園祭・後祭 山鉾巡行 再出発の準備をする大船鉾

瀧尾神社との意外な縁

大船鉾の鉾頭には二つあると宵山の記事で書きましたが、竜頭は北四条町、大金幣は南四条町が付けて、隔年ごとに巡行していました。大金幣は焼けずに残ったのですが、竜頭は焼失しています。しかし、その後竜頭を作ったのは瀧尾神社にある龍の作者と同じと判り、神社の龍を参考に復元されたのが現在の竜頭です。瀧尾神社からはその後艫幕板飾りの寄進も受けています。

結びとして

以上で後祭山鉾巡行の11基の紹介は終わりです。強烈な暑さの中、写真を撮っている間は暑さも忘れていましたが、終わってから一気に疲れが出ました。カメラもこの動画を撮るまでなんとか持ちました。触れると熱いと感じるほどになりましたけどね。

夏を迎える祭が灼熱の中の祭になってしまいましたが、これから先はどうなるのでしょう。願わくば以前の様に梅雨明けを告げる祭に戻ってほしいですね。でも酷暑が続く様になっても、これまで何度も挫折を乗り越えてきた祭ですから、きっとこの先も続くことを期待して結びに代えます。

祇園祭・後祭 山鉾巡行2026 ~鷹山 7月24日~

巡行に復帰して4年目の鷹山。まだまだ新鮮味がある山です。

祇園祭・後祭 山鉾巡行 鷹山

主題は公家の鷹狩り

鷹狩りって、武家のたしなみという感じがしませんか。象徴的なのが駿府城公園にある徳川家康像。鷹を手にした堂々たる姿です。しかし、実は公家の鷹狩りの方がずっと歴史が古いのですね。日本書紀に仁徳天皇が行ったという記録があり、平安時代には貴族の間で大流行していたとされます。武士が行う様になったのは10世紀頃からで、ずっと後発なのですね。

鷹山はその公家の鷹狩りを題材にした山で、鷹匠・犬飼・樽負の三体を御神体としています。

鷹山の復帰で祗園囃子を奏でる山鉾は4基となり、後祭も賑やかになりました。

祇園祭・後祭 山鉾巡行 河原町御池の交差点に入る鷹山

暴風雨をきっかけに休み山へ

鷹山は196年間休み山だった山。文政9年(1826年)の巡行の際に暴風雨に遭い、懸装品が破損したため翌年からの巡行を取りやめました。そして禁門の変の際の大火により山本体も焼失し、長く居祭りだけを行ってきました。

ただ、少しおかしいと思いませんか。巡行中に暴風雨に遭ったのは鷹山だけでは無いはずなのに、他の山鉾は翌年からも巡行を続けています。それだけ被害が大きかったのかもしれませんが、復興しようと思えば出来たはず。それをしなかったのは、財力に乏しく、町衆にも復活させようという機運が十分に高まらなかったからではないかと推測されます。あくまで私の推測ですけどね、町衆同士の競い合いに疲れてしまっていたのかもしれません。

辻回しは山鉾によって曳き手の配置が異なります。鷹山は放射状に広がります。

祇園祭・後祭 山鉾巡行 辻回し直前の鷹山

復興に寄与した鉾町の助け合い

鷹山の復活は、大船鉾の復活に刺激を受けた現役員の三人の居酒屋でのつぶやきから始まりました。そして、三人の熱意に打たれた他の鉾町の援助を受け、囃子方は北観音山の指導によって復活し、車輪は船鉾、石持は放下鉾、櫓は菊水鉾からそれぞれ譲り受けることが出来ました。そしてクラウドファンディングなどで資金を集め、トルコなどからアンティークの絨毯などを買い付け、見事な懸装品をまとうことに成功しています。そして現在の見送りはなんと長刀鉾町からの寄贈で、江戸時代に大津祭の西王母山に売却されていた鷹山の見送りを忠実に再現したものだそうです。相当な金額が掛かったと思われますが、鉾町同士の助け合いが祇園祭を支えていることの象徴の様な出来事ですね。

長刀鉾が支えた辻回しの復活

長刀鉾の援助は見送りだけで無く、辻回しの指導も行ったそうですね。2022年に見に行った時、無事に出来るのだろうかとはらはらしながら見ていたのですが、見事にやってのけたのを見て、すごいと感心したのを覚えています。今回は4年目で、もう堂に入ったものでした。

私的にはもう動き出すだろうと動画を撮り始めたのですが、予想に反してなかなか動かず、カメラの温度がどんどん上昇して強制シャットダウン寸前でした。もうだめかなと思ったときに動き出したときは正直ほっとしました。

山鉾毎に法被は異なります。鷹山は鷹の一文字。なかなか格好良いです。

祇園祭・後祭 山鉾巡行 鷹山の法被

洒落た鷹山の法被

鷹山の衣装は京都市立芸術大学の学生たちがデザインしたものです。曳手のデザインも洒落ていますが、大きく「鷹」と記しただけの法被も格好良いですね。これは車方など運営者が着る法被です。

三回目の辻回しを行う直前の鷹山、曳き手は配置につき、車方が最後の準備に大忙しです。

祇園祭・後祭 山鉾巡行 三回目の辻回し

辻回しの難しさ

辻回しは一度に大きく回せば良いというものではなく、祇園囃子の曲に合うように三度くらいで回すのが理想的です。見ている側は、勢い良く回ってくれた方が面白く、大きな拍手が送られますけどね、実はそれは失敗なのです。この日の鷹山も2回目で少し回しすぎたようで、3回目で真っ直ぐにするには加減が難しかったようです。

無事に辻回しを終え、河原町通に向けて出発直前の鷹山です。

祇園祭・後祭 山鉾巡行 出発直前の鷹山

再出発前の慌ただしさ

なんだかんだで、河原町通に正対した鷹山。これからの動き出しに備えて、車方が竹の片付けなど、いそがしく動いています。

復活を続ける鷹山

ここで気付いたのですが、屋根が漆で装飾されていますね。本来は破風も漆と金箔で飾られるはずなのですが、そこまでは手が回らなかったようです。一足飛びとは行きませんが、鷹山は少しずつ本来の姿へ近づこうとしているのですね。その歩みを来年も見にきたいと思っています。